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中川昭一君を悼む。

今日は、個人的な感慨と記憶を書きとめておきたい。いつの間にか大物政治家と言われるようになって久しかった故人だが、私の気持ちのなかでは、いまも昭一君であり、昭ちゃんなので、失礼を承知で表題とした。

彼の父、中川一郎氏が自殺した後を継ぎ、83年の総選挙が初当選だった。以来1/4世紀以上が過ぎた。8回も総選挙があったのかと自分と彼の年齢を思い、この間の日本の政治や政策変遷の時間の長さ(必要な変化まで、あまりに長い時間が必要だった)と、しかし、その流れる早さとを思う。


私は当時まで、中川一郎氏の末弟、中川義雄氏と公私ともに大変親しくしていた。義雄氏と毎日新聞がタイアップし、外務省ともひんぱんに実務協議をしていたのが「北方圏交流」の構想だが、その政策ビジョンや具体化策づくりを、当初は北海道庁の先輩・後輩の関係で進めていた。小和田元国連大使(当時はまだ外務省本省にいた)をへりで道内案内し、ごく大衆的な焼き肉食堂で(不遜にも)外交議論をしたこともある。

義雄氏は、後に道議会議長、現参議院議員。ごく最近、政権交代後の混乱自民党の議員総会で、「若林氏への一本化」を相変わらずドスのきいた、しかし、やや甲高い声で提案・発言していた。昔から退却戦に強い、混乱を収拾できる人だった。

一郎氏が自殺した直後、社会党のプリンス・横路孝弘代議士(現衆院議長)が激戦を勝ち抜き、横路革新道政がスタートした。義雄氏は道庁を退職、道議会自民党の政調会長になっていた。私は知事直属の審議室スタッフで、知事就任後2年連続で執行方針を執筆していた。当時35歳だったが、実質的に、議会多数派の自民党と横路政権の対立論点の整理、内容ある論戦のための地ならし役だった。

一郎氏の自殺の後、昭一君と鈴木宗男秘書との後継争いが激しくなるなか、義雄氏は当初それに介入せず、かなり長いあいだ雲隠れしていて、彼を捜す関係者が騒然となっていた。私は、すすき野の隠れ場所で、悲嘆にくれた義雄氏のその日々の相手をしていた、おそらく、ごくわずかな数の人間だった。

もともと、道庁から外務省東欧一課(後にロシア課)に出向、外務省経由でモスクワ大学に留学(当時は社会主義ソ連)、サハリンからの天然ガスパイプラインのプロジェクトに備えるのが、私の官僚人生の路線として予定されていた(諸事情で中止になった)。「北方圏交流」の構想への関与もその準備だった。だから外務省、従って鈴木宗男氏との接点も小さくなかった。

宗男氏の行動力、政治的ネットワークづくりとその維持・活用への熱心さは、当時から特筆すべきものだった。私たちのような、道内官民の若手活動家の政策的主張、名前、そして個人的な懸案事項まで、数ヶ月のちに再度対面したとき、直ちに話題にすることができた。記憶力の問題ではあるまい。おそらく、日々その日の自分の行動と対面者についてのていねいなレビューを自分に課していたに違いない。

だから、政治的後継が自分であるべきだと宗男氏が考えたことには何の不思議もない、と私は(当時も今も)思う。しかし、当時はいまのように政治の血縁者世襲に基本的疑問が広がっていた訳ではない。むしろ、お家をさん奪する悪家老のイメージでとらえられることになった。

中川派を引き継いだ石原慎太郎代議士(現都知事)は、宗男氏をこき下ろしたが、その論理は、エリート主義、エスタブリッシュメント優先の論理そのものだった。それ以降、私は、彼を政治家として好ましく思ったことはない。

一郎氏の自殺まで、昭一君との面識はなかった(と思う)。しかし、その後比較的早く義雄氏から紹介され、私にできるさまざまな協力をした。当初、本人自身が政治に意欲的だったという印象はまるでない。政治家としてピークの時期にあった(とほとんどの関係者が思っていた)父の急死であった。やがてどうするかと彼が自然に考えたり、意欲を持つ持たないというには、はるかに以前の段階であったはずだ。

だから、確かに対抗する関係にはなったが、昭一君と宗男氏が、個人的な怨念で対抗していたようには思えない。立場の違いが先行して、やがて(心理的に楽なので)相手を意味なく憎むようになってしまう類いの人物では、どちらもなかった。今回の昭一君の死の後の宗男氏の涙に、私は嘘偽りは感じない。

それに十勝の風土もある(私自身も、旭川出身だが生まれは十勝である)。そこで培われた中川軍団の(一部は宗男軍団化したが)結束の強さと、基本的な人の良さ、反対派への許容度の高さというものが効いていただろう。実際、その後の選挙戦のつど、両陣営の幹部たちが実は紳士的に分担や縄張りの裏協定をしていたり、選挙を離れた地域おこしの活動では、むしろ互いを支え合っていた事実を知っている。

横路知事誕生のときの知事選挙では、十勝での立会演説会で中川軍団が横路候補をやじり飛ばし、立ち往生させるはずだった(その実力もあった)。しかし、その中川軍団の面々が、十回以上も『私の話を聞いて下さい』と繰り返し叫ぶ横路候補の真剣さに、思わず自然にヤジをやめて聞き入ってしまったエピソードもある。中川軍団は、そうした気のいい十勝のおじさんたちででき上がっていた。

ちなみに、今のように、ネット中継というもののなかった時代だが、そのときの劇的な静まりかえり方、会場の急変の様子を、私は特殊なメカを施した電話で、道庁の一室で実況中継のように聞いていた。その瞬間、道政の保革逆転、政権交代が決まった、という強い感覚を覚えた。その印象をいまも強烈に記憶している。

代議士に立候補し当選した昭一君は、もちろんそれなりの才能があり、用意された舞台の上で無事に役を務めていた。だが、自分から意欲満々に政治家人生を切り開いていこうとしているとは見えなかった。少なくとも当時はそう思って見ていた。政治資金パーティのとき、はるか年上の、紺や暗いグレーの背広の人波のなか、わずかに年上にすぎない私たちを発見すると、ほんとうにうれしそうに急ぎ足で近づいてきた。

その後はもはや、ほとんど電波のなかでしか見ることが無くなったが、違うところに別な昭一君本人がいて、自分は何をしているのかといぶかっている表情に見え、繰り返し痛ましい思いにかられた。

地域政策立案の面での協力ということなら、鳩山由紀夫・現首相の衆院選初出馬のときにも室蘭まで出かけ、少人数の会合を持ったことがある。それらは、道庁政策スタッフとして当然の部分も多少はあった。だが、昭一君との関係はもう少し密接だったと思う。また、その後も長いこと、昭一君、義雄氏、宗男氏の動静については、他人事とは思えないできた。それが、やはり本当のところだ。

 その後、多少の接近遭遇はあったが、特筆すべき関係はなく、求めもしなかった。私は辞職し、北海道を退去した。新天地でこつこつと生活の糧を求め、多少はビジネスのうえで不利になることがあっても、住民の実質参加型の政治、政策立案の役に立ちたいと願いながら、市井の人生を送ってきた。

中川昭一君、義雄氏、宗男氏それぞれと、政策志向も、活動の場面も、私はいま大きく違っている。しかし、彼らの(彼ら自身、期待も予想もおそらくはしなかった)成功と苦境、正直すぎて隠しきれない強気と弱気、それらは、いままでも私自身の人生を測り、(あえて言えば)これでよかったのだろうか、多分よかったのだろうと確認するための、一つのゲージだった。そのことを昭一君の死を悼みながら再確認している。

 

| C.政治・政策形成一般 | 14:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | このページのトップへ
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