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現場とネットを重ねあう「会話」と「熟議」へ

「つながり」の現代史

これまで、このブログで(陸奥新報の「時事随想」でも)、「つながり」について繰り返し書いてきた。地域や家庭のつながりが崩れて不幸をもたらしていること、一方,行政依存や経済主義ではない、人と人との新しいつながりがこれからの希望であること,だがそれには手法の蓄積や忍耐力がいること、などだ。

このテーマを繰り返してきたのは、私自身がこの10年以上,青森をフィールドにして、人と人,地域と地域のつながり(広義のコミュニティ)を支える手法や仕組みづくり,その現場研究を主な仕事にしてきたからだ。県のボランティア条例の立案や青い森ファンド(公益信託・青森県ボランティア基金)の運営といった具体化作業にも携わってきた。

この主題の転機になったのは(社会的にも,私個人にとっても)15年前の「阪神・淡路大震災」だったと思う(それ以前に,青森に居を移したときの個人的な思いもあった)。「つながる人たち(コミュニティ)」「つながる会話(コミュニケーション)」という問題意識から考えていくと、「阪神・淡路」の後からのこの15年間が、狭い意味の現代であると強く感じる。

いまになっては信じられない思いがするのだが,そのときまでは、ボランタリー経済,インターネット,ケータイ、どれも、ごく小さな社会的力を持つに過ぎなかった。そのそれぞれが、ここまで社会の形を変えていくとは、ほとんどの人が(もちろん私も)まったく予想していなかった。


15年前の(早くも忘れられつつある)転機

インターネットは、1/4世紀前には,行政・大学研究者などしか使えなかった。当時政府系シンクタンク(NIRA総合研究開発機構)に在籍していたが、それでもネット利用には面倒な承認手続きが必要だった。多くの行政現場では、ネット利用が労働強化につながるということで(それはかなりの程度本当のことではあった)、なかなか激しい職場闘争があった。

また、私自身は、やはりその頃NIRAの業務として,フィランソロピー(利他・奉仕)やNPOに関する論文の翻訳に四苦八苦していた。英語力の問題もあったのだが、そもそもフィランソロピーやNPOが、実際のところ何のことをさすのかまるで具体的なイメージを持つことができず,見当がつかなかったのだ。

ボランティア活動やNPO組織は「阪神・淡路」から爆発的に増え、その3年後には一気にNPO法ができた。あのとき、多くの無名の人たちの「阪神・淡路」での活動,それに続く全国各地での動きがなければ、NPO法の成立はずっと後のことになっただろう。いや、ついに成立していなかったかもしれない。いまも市民活動やサードセクターを肯定的に理解しようとしない多くの政治家がいるのだから。

震災のとき、私のつれあいも社会福祉協議会にボランティア登録をしたのだが,これらの公的ルートは未曾有の災害とそれを助けにいきたいという国民の気持ちをつなぐ上では事実上機能しなかった。いつまでたってもらちがあかないことに業を煮やして,彼女は独力で関西の視覚障害者組織に飛び込んだ。

公的ルートの組織の名誉のために付け加えておくと,それは怠慢や人的・組織的な能力不足のためではない。当時は分散している多彩で個人的・個別的な情報を集約化したり、ましてやマッチングするということは非常に難しかったからだ。それは、時間をかけて(お役所仕事の良さである)正確さを確認して進めるしかない作業だった。

要するに,当時の日本社会の情報伝達システムには、国民のボランタリーな意欲を、それが必要なタイミングで処理する能力が備わっていなかったということだ。相互性もなく,大量処理能力もなかった。実際に救援に使える情報網は、長髪の若者たちが現場で(ニフティで)懸命に立ち上げていったのである。

ケータイもそれまでは普及度が低かった。ハードな電話網(末端の公衆電話など)が急に崩壊したために、一気にその有用性の認知が進んだ。被災地の街角では携帯企業から5円,10円で端末が提供された。必死のコミュニケーションがそれでどれだけ助けられたことだろう。そこから急速な低料金化と普及とが相乗的に始まった。


いまの、オンラインコミュニティの現実

しかし,新しい道具だけではうまくつながっていくことはできない。いま、オンラインコミュニティ(ネット上のつながり)の問題点は小さくない。

この辺りのことは,文科省で始まった「熟議」の議論において、「藤沢市市民電子会議室」代表世話人の粉川一郎氏が,さっそく的確に問題提起をしている。私なりの理解と要約でその一部を紹介しながら展開しておこう。

(なお、文科省の「熟議」委員会には,横浜町の柏谷教育長が参加している。現場性と地域の将来への熱い思いを伝えてほしいと思う。また、藤沢市の取り組みには慶應のSFCが長く関わってきている。「熟議」座長の金子郁容氏は、コ・モビリティ研究センター長でもあり,青森市で私たちが取り組んでいる「まちなかマーケティング」市民活動は、これらの取り組みと関わりがある。)

オンラインコミュニティのそもそも的な問題として、個人が特定できない会話では,発言が本当に信頼できるかどうか,信憑性が問われるという問題がある。「なりすまし」発言があり、愉快犯的な、コミュニティ(つながり)づくりに責任を持たないという意味で無責任な「あらし」や「ネット暴走族」のために、論争が泥沼化する。顔をあわせての議論では起きないような深刻な誤解(コミュニケーション事故)が起きたりもする。私たちは感情の動物でもあるから,一度起きた感情的な行き違いは、大脳皮質が誤解だったと理解しても容易に解くことができない。

そのうえ、近年の傾向として、多彩なネットサービスがはんらんして、気に入らないと会話の「場」を簡単に捨ててしまうパターンが広がっている。オンラインコミュニティの参加者にとって(その人生や価値観なかで)「場の価値」が損なわれてきているのだ。このため(価値のある「場」ではないから)、差別的な発言やおどしをしないという市民的な「規範」も失われやすくなっていると思う。つまり、(やや誤解を与えるが)おおざっぱな言い方をすれば,ネット上のつながり(オンラインコミュニティ)が急速に都市化(大衆社会化)し、風化していっているのだ。

加えて,この国では、市民と情報ネットワークとの関係をはばむ政策環境的な問題がある。公益活動に熱心な市民は(県内では、まだ活動的市民が少ないし、公的支援も貧弱なので)日常的にたいへん忙しく、系統的なネット利用に取り組めないケースが多い。オンラインコミュニティへの参加による現実的な利益(活動の役に立つと言う実感をもたらすインセンティブ)もまだまだ乏しい。そのために、地域の中心的な「シチズン」が、(仮に,なる必要があると理解している人でも)オンラインのアクターになりきれないでいる。


若い担い手への期待、私たちの役回り

ネットを利用した新しいつながり(コミュニティ)には、もちろん、これからの社会の再建・再生のために大きな可能性がある。そこに可能性を見いだすことは,いまの私たちの切実な願いでもある。しかし、それには現場との重ねあい,辛抱強い信頼関係づくりが必要だ。つまり、「場の価値」を絶えず再建し続けなくてはならない。オンラインの会話に慣れた若い人たちが、県内の現場の協働活動に数多く参加し、柔軟な現場ルールをつくる仲介者(ファシリテータ)になってほしい。そのことに強く期待をしたい。

だが、いまのところ彼らには,リアルなコラボレーション(協働)の経験、中心人材としてコミュニティの責任を負う経験蓄積が不足していると思う。それには、(彼らではなく)私たちにかなりの責任がある。彼らの経験不足をカバーし、協働活動の楽しさを伝え,彼らをリスペクトし、中心的な役割を意図的に(計画的に)譲っていくのが私たちの役回りなのではないか。

  簡略化して、陸奥新報2010.03/28(日)「時事随想」に掲載

 
| A3.市民活動系 | 08:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | このページのトップへ
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